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目 次 第一章 秦兼方の経歴
第二章 神楽人としての秦兼方
第三章 源俊頼と秦兼方
第四章 大江匡房と秦兼方
第五章 『顕昭陳状』の兼方の和歌説話
第六章 『今物語』における説話の簡略化
第七章 『宇治拾遺物語』第十話の考察
第八章 秦兼久の和歌の特色
第九章 『撰集抄』における虚構
第一章 秦兼方の経歴
秦兼方は、武方の養子で八十歳で逝去した〔秦氏系図〕。もとは近重男だったか〔地下家伝〕。
源師房の侍で、藤原教通の番長・官人、後三条院の官人、藤原師実の官人となる〔秦氏系図〕。
兼方は、長元五年(一〇三二)に生まれたか。
官位は、正六位上右近衛府生を経て、右近衛将曹となる。兼方の転任(昇進)を源師房の子、俊房が推挙して
いるので、代々村上源氏に仕えていた。〔大間成文抄第八〕。 ▲目次へ
第二章 神楽人としての秦兼方
兼方は、舞人として右近衛府生に
任じられたようである。舞人は十人と定められ、五位または六位の者で舞楽に堪能な人物が選ばれた。
兼方の「正六位上」という位は、それに準じたものだろう。兼方は、随身の職務上必要な武術や馬術より
も、神楽の人長や歌人として堀河天皇の治世(一〇八六〜
一一〇七)に活躍した。院政期における随身は、単なる護衛者としてではなく、護衛する場を盛り上げる役割
も担っていた。寛治七年(一〇九三)三月二十日の白河上皇春日社御幸御神楽では、人長を
勤めている。そのときの様子が、『春日権現験記絵』に描かれている。
詞書 巻第二・第一段
御即位十年記念特別展 皇室の名宝─美と伝統の精華を見学して

人長の舞 
去年の御願によりて、寛治七年三月、舞人一員を召し具して春日社に御幸あり。事に触れて由々し
き儀式を尽くされけり。内大臣以下并びて舞に立つ。左大臣陪従の列に加はり立つ。先例もあり難く、神感
も掲焉なりけん。
平成十二年一月十三日(木)、東京国立博物館の展示会を、見学しました。演習Vの講義の一環として
行きました。すると、『春日権現験記絵』巻第二の拝殿前の坪庭の神前の図が、詞書とともに展示されて
いました。卒業論文を提出したあとでしたが、原本を直接見るという好機に恵まれ、感激しました。舞人
の青摺袍の桐竹鳳凰文を、はっきりと見ることができました。雨の降るなか家に帰って、インターネット
で
東博のホームページ
第三章 源俊頼と秦兼方
院政期には、芸能がさかんになる。笛の名手だった堀河天皇を中心として、神楽人の輪が形成されていた。
『金葉集』の撰者の源俊頼も、篳篥の奏者として神楽に奉仕することが多かった。その頃、神楽の人長と
して活躍していた兼方は、俊頼にとって身近な存在だったに違いない。『金葉集』の兼方の歌には、「左近府生」という官職が記されている。勅撰集の六位の歌人(地下歌人)
で、官職まで記載されるのはまれだという〔八雲御抄〕。
『金葉集』二度本(正宗文庫蔵本) 巻九 雑部上・五二四
こぞ見しに色もかはらずさきにけり 『秋風和歌集』下巻第十七・雑歌上
一〇七一 一〇七ニ 「命あらば」とあるので、兼方の晩年の作か。兼方の歌は、擬人法を用いるのが特徴である。
▲目次へ 第四章 大江匡房と秦兼方
『江都督納言願文集』 秦兼方堂供養 〈書き下し文〉 願文に、「一院を建てて三昧を修す。
皆金色等身の釈迦如来・阿弥陀如来・三尺の観世音菩薩像一体を安置し奉る」(原漢文)とあり、莫大な財力があっ
た。また、「妙法蓮華経八巻・無量義・観普賢・般若心等の経各一巻を書写し奉る」(原漢文)とあり、仏教の信仰が
深かったことが読みとれる。『江都督納言願文集』は、大江匡房の願文集であるから、匡房に願文の代
作を依頼した。秦兼方堂供養は、年号が欠落しているが、永保二年(一〇八二)に行われたか。 ▲目次へ
秦兼清は、兼方の曾孫、兼久の孫にあたる。随身の普段着。 文化財保護法五十年記念「日本国宝展」を見学して
こそみしに色もかはらす咲にけり 此哥は後三条院うせさせ給ひて諒闇の年円宗寺の花をみてよめり
世人もよろしと申けれは後拾遺撰之時通俊卿のもとに参て罷入侍らはやと堅く申けるに彼卿たひ
たひなかめて宜しけれと花こそと云詞の置様こそ心ゆかねと侍けれは物ももうさず
立侍にけり侍ともの居あひて侍ける所によりて申けるやう四条大納言殿御哥に
春きてそ人も問ける山里は とよみ給へる哥は彼大納言殿の一の秀哥とこそ申侍に花こそといふ詞は只同所にをきて侍るを
撰集奉はらせ給はかりにてはいかにかゝる僻事をはおほせらるゝにか此一事にて万こそをしはか
られ給へとて立侍にけり同詞なれと人によりてわろくなるは定事なれは始て可申に非す 第四十四話(陽明文庫本)
去年みしに色もかはらす咲にけり といふ哥をよみてえらふ人のもとに行て此歌いらむと望けるに花こそといへるかいぬの名に似たる
と難しけるをきゝてたちさまにこのとのは勅撰なとうけたまはるへき人にてはおはせさりける物をは
なこそやとのあるしなりけれといふ哥もあるはといひかけてけるいとはしたなかりけり こそみしに色もかはらすさきにけり とこそ仕つりて候しかといひけれは通俊卿よろしくよみたりたたしけれけりけるなといふ事はいとし
もなきこと葉なりそれはさることにて花こそといふ文字こそめのわらはなとの名にしつへけれとていとも
ほめられさりけれはこと葉すくなにて立て侍ともありける所によりて此殿は大かた哥のありさましり給は
ぬにこそかゝる人の撰集うけ給ておはするはあさましき事かな四条大納言の哥に
春きてそ人も問ける山里は とよみ給へるはめてたき哥とて世の人くちにのりて申めるはその哥に人もとひけるとあり又やとのあ
るしなりけれとあめるは花こそといひたるはそれにはおなしさまなるにいかなれは四条大納言のはめて
たくて兼久かはわろかるへきそかゝる人の撰集うけたまはりてえらひ給あさましき事也といひて出にけり
さふらひ通俊のもとへ行て兼久こそかうかう申て出ぬれとかたりけれは治部卿うちうなつきてさりけりさりけり物ないひそとそいはれける
はなこそ物はおもはざりけれ
コレカレ東山ノハナミニマカリテ花下逢旧友トイフコトヲヨメリケル
モトヽシ
タレモアハレニオモヒケルカナ
ハタノ兼方
トモヲハヽナノマネクナリケリ
弟子兼方、身心不退にして、前んで仏に白して言はく、「泡山散り易し、何
ぞ二華の高きことを期せん。沙城自ら頽し、万雉の固きことを仮らんや。」有侍
の身、喩を此に取れり。弟子、累葉宿衛の後に生れて、千金・弓馬の中に長せ
り。控御を以て□□と為し、馳猟を以て家の資と為す。爰に五十に及びて、頭
に霜雪を梳る。菩提□□漸く丹?の底に生れたり。道場観の月自ら□□の隙に
明かし、思んて益無し。善根には、如かず。仍りて、鳳城の北、船岡の傍に荊
棘を闢ひて茅茨を結び、一院を建てて三昧を修す。皆金色等身の釈迦如来・阿
弥陀如来・三尺の観世音菩薩像一体を安置し奉る。妙法蓮華経八巻・無量義・
観普賢・般若心等の経各一巻を書写し奉る。□□二年の冬、下旬七日、真言の
軌儀に就いて敬ひて、敢へて供養の壇場を開く。洪鐘・浮磬、香花・幡蓋、念
々に成就し、一々に具足す。左
右平の製造、自ら地形に叶い月輪・烏瑟の精
華殆人力に過ぎたり。青嵐吹いて蕭々たり、峰霊鷲山の色を写し、寒雲を低く
して片々たり。水、法龍池の名を伝ふ。飛禽、獣を走して、自ら結使の網を免
れ、林草に叢りて、悉く功徳の園と為る。仰ぎ願はくは法輪長く転じて、慈氏
三会の期に到り、願印?ずして、賢劫千仏の世に伝へん。又願はくは此の善根
を以て四恩に廻向し、三有に利益せん。私・天・博陸殿下・槐門の中、栄花、
天地よりは長く蓮府に茂す。
随身の服装
『随身庭騎絵巻』(大倉集古館所蔵)
秦兼清の肖像画
どういうわけか案内葉書が送られてきて、平成十二年五月五日(金)、東京に出て来たついでに行きま
した。ゴールデンウィーク中で、館内は人でごったがえしていましたが、主要な展示会には足を運んでみる
ものです。なんと『随身庭騎絵巻』が展示されていたのです。細い中にも力強さがある線で、随身は描かれ
ていました。『随身庭騎絵巻』は、五月七日まで展示されるそうです。 ▲目次へ
第五章 『顕昭陳状』の兼方の和歌説話
同詞なれと人にしたかひ哥によりて
わろく聞ゆることも侍らん金葉集に 秦兼方
花こそ物は思はさりけれ
花こそ宿のあるしなりけれ
第六章 『今物語』における説話の簡略化
後拾遺をえらはれける時秦兼方とい
ひける随身
『今物語』では、「後拾遺をえらばれける時」に、兼方が歌を詠んだという時代設定がされ、侍が登場
しない。これは、説話を簡潔にして、読者に分かりやすく伝えようとした信実の執筆意図であろう。そのた
め、兼方が通俊を直接批難する構成になった。私は、「はしたなし」の語を
兼方と通俊の論争に決着がつかなかったことへの評語と受け止め、「どっちつかずで、中途半端である」という意味に取りたい。
そのため、『宇治拾遺物語』では、通俊が自らの無知を認める展開になっていったと考えられる。
えらぶ人が、「花こそといへるが犬の名に似たる」と冗談混じりに批評したのを、兼方は真に受けて、「花こそやどのあるじなりけれ
といふ歌もあるは」と言ったところにおもしろみがある。『袋草紙』や『顕昭陳状』とは異なり、通俊の勅撰和歌集の
撰者としての権威のなさを露呈している。 ▲目次へ
花こそ物はおもはさりけれ
第七章 『宇治拾遺物語』第十話の考察
陽明文庫本これも今は昔治部卿通俊卿後拾遺をえ
らはれける時秦兼久行向てをのつから哥なとやいると思てうかゝひけるに治部卿いてあひて物かたりし
ていかなる歌かよみたるといはれけれははかはかしき哥候はす後三条院かくれさせ給てのち円宗寺にまい
りて候しに花の匂はむかしにもかはらす侍しかはつかうまつりて候しなりとて
この説話は、二段構成になっている。まず、秦兼久が通俊卿のもとに向かう話。そして、侍が通俊の
もとへ行く話である。「侍、通俊のもとへ行きて」と通俊に敬語を用いていないので、侍と通俊は親密
なことが分かる。『宇治拾遺物語』の注釈書は、主人公を「秦兼久」としているのは、「秦兼方」の誤
りと結論づけている。しかし、私はもう一歩踏み込んで、『宇治拾遺物語』の編纂者が原典には「秦兼
方」とあったのを「秦兼久」と改変したと考えたい。あるいは、虚構と言ってもいいかもしれない。歌人としては、兼方と兼久は、嘉保二年の鳥羽
殿前栽合に出席している〔中右記裏書〕。二人の歌は伝わらない。同じ右方には、藤原通俊もいたので、
兼方や兼久と交流があったかもしれない。こ
の説話には、評語がない。そのために、通俊の「物な言ひそ」というセリフの解釈が問題になる。通俊が、
侍に「誰にもこのことは言うな」と口止めしても、兼久は黙っているはずがない。侍に「これ以上何も言う
な」と口止めしたとするのが妥当である。『宇治拾遺物語』の編纂者は、評語を書くと説話の主
体性が失われることを認識していた。『宇治拾遺物語』の奥行きの深さは、ここから生まれいる。
書承関係は別として、基本的な説話の枠組みは、『顕昭陳状』を、アイデアは『今物語』から取材していると思われる。
▲目次へ
花こそ物はおもはさりけれ
花こそやとのあるしなりけれ
『金葉集』初度本(静嘉堂文庫本) 巻第二 夏部・一九四
五月五日家に菖蒲をふくをみて読る 右近府生秦兼久
おなじくはととのへてふけあやめぐさ 『三百六十首和歌』(松平文庫本)には、『金葉集』の歌の下の句を変えた兼久の歌がある。
一二八 貞治三年(一三六四)以降に成立した『六華和歌集』(松平文庫本)
にも、同じ歌がある。「しどろに落つる」の用例が、後鳥羽院の和歌にしか見られないので、下の句は
『三百六十首和歌』の撰者の改変と考える。兼久が「しどろに落つる」と詠んでいたならば、用例はもっと
多かったに違いない。
『後鳥羽院遠島百首』夏・二五
建仁元年(一二〇一)以降に成立した『言葉和歌集』(時雨亭文庫本)に、兼久の歌がある。
陸奥御馬使ニ下向シテ侍ケルニ清衡
アフヘキヨシ申ナカラヒサシクアハサリケレハステニノホリナムトスルヨシ申ツカハシテヨミ侍ケル 秦兼久
ヲトニノミキヽテソカヘルミチノクノ 兼久の和歌は、掛詞を用いるのが特徴である。 ▲目次へ
と読みたりけるを、俊成の聞き給ひて、「上の句は目出たけれども、下の句『花こそ』の句、すこし
心にもかなはず。ひてふ風情の心地のし侍り」とそしり聞こえ給ひけり。兼方此ことをほの聞きて、
殊に取りつくろひて、俊成の宿所にまうでて、人をたづね出して、「いと便なき事に侍れども、申し入
るべき事の侍りてまゐりたると申させ給へ」といふに、俊成きき給ひて、「此歌のこと云ふべきにこそ」
など、心得給ひて、「今まぎるる事侍り。なにわざにか侍らむ」とのたまひければ、兼方、「かくと申さ
せ給へ」とて、
とばかり云ひて、出でにけり。俊成きき給ひて、「おちあはれぬ」とぞのたまはせ侍りける。
・このページの一部に、e漢字プロジェクトの漢字フォントを使用しました。
さみだれならばもりもこそすれ
しとろに落る軒の玉水
あやめふくかやが軒端に風すぎてしどろにおつる村雨の露
巻第十五 雑下・三四三
アフクマカハヽナノミナリケリ第九章 『撰集抄』における虚構
第八 第二十話(橋本研一本)
待賢門院かくれさせ給ひてまたの年
の春、兼方と云ふ随身の、彼御所へまゐりたりけるに、人は歎きの色ありて、元亮の人も侍らねども、花
は思ふ事なく、去年にかはらずさきみだれたるを見て、
この説話は、俊成の「おちあはれぬ」というセリフがポイントになる。
これは、「納得できた」と解釈するしかない。そして、『撰集抄』の
作者が、説話部分をどうとらえたかが問題になる。まず、俊成は、「上の句は目出たけれども、下の句
『花こそ』の句、すこし心にもかなはず。ひてふ風情の心地のし侍り」と兼方の和歌を非難した。
「下の句花こその句」という表現は、曖昧である。俊成は要するに、「下の句に風情がない」というこ
とを言いたかった。兼方は、世間で噂になっていた話を聞いたのか、「花こそといふ句を、かたぶき給
ふ」とほのかに聞いた。兼方は、俊成が「花こそ」の「こそ」を非難したと思い込んでいる。そして、
俊成の従者に、俊成の父、俊忠の歌の「花こそやどのあるじなりけれ」とだけ言って出て行った。この
時点で、俊成と兼方の争点がずれている。また、この説話では、兼方を「随身」、俊成を「中納言」と
していることから、兼方と俊成の上下関係を明らかにしている。
去年見しに色もかはらず咲きにけり
花こそ物はおもはざりけれ
花こそやどのあるしなりけれ
「『花こそ』といふ句を、かたぶき給ふ」と聞きて、「俊成の父、俊忠の歌の花こそはいかに」とと
がめけるなり。但し、中納言の難じ給へるは、「『去年見しに色もかはらでさきにけり』といふまで
はいかなる風情の句もつきぬべげに侍るに、『はなこそものは思はさりけれ』といふ、むげによはき
句也」とそしり給へるにこそ。ただ「花こそ」といふ、「こそ」をにくみ給ふにはあらじものを。し
かる上は、なにしにか俊忠の歌にはひとしむべき。
▲目次へ
貞享四年(一六八七)刊絵入り本